後水尾帝と池坊専好(時の帝といけ花名人)
「関東献上立花図巻」
  安永五年写本
 
 室町時代に池坊の代々の僧達によって、いけ花は様式が整えられ仏前荘厳から抜け出し、寝殿、書院を飾る役割を荷うようになった。

 文禄三年(一五九四)前田利家が自亭に豊臣秀吉を招くに当り、書院に池坊専好(初代)に大砂物を立てさせた。これが大評判となり、専好をして「池坊一代の出来物也」と称賛された。同時に彼は立花、砂之物を芸術として確立し、時の文化人や権力者に認められるようになった。

 その後江戸時代に入り、慶長十六年(1611)、後陽成天皇から譲位された後水尾天皇が即位された。この天皇の女御として入内したのが、徳川秀忠のお子徳子で、興子内親王がお産れになり、寛永六年にはわずか八才の時譲位されて明正天皇(女帝)となられた。譲位された後水尾帝は院となられ、徳子中宮は東福門院となられた。一方後水尾院の実の弟君は臣下に下り、近衛信尹の養嗣子近衛信尋、伯父君には八条宮智仁親王(桂離宮を造営)、更にその弟君曼殊院良尚法親王、烏丸光広、本願寺良如、誓願寺策伝ら綺羅星の如くその時代の最高の文化人のそのサロンの中心的役割をなされたのが後水尾院であることは多くの知るところである。

 少し話がそれたが、その後水尾院は仙洞御所をはじめ御所内各所で、立花の会を催されたことは以外に知られていない。私の手元にある資料だけでも、十九面に及び多い時は年5〜6回も催しておられる。その都度、関白(信尋)や多くの公郷も立花を立て、その数二十瓶、三十瓶となった由。その立花の会の指導的役割を行ったのが、寛永の立花の名人と賞せられた二代目池坊専好であった。
 例えば、寛永六年六月廿七日、専好の控えに、「禁中紫宸殿立華御会之節 御花一瓶(天皇自らいけられた)左大将教平公初めて奉る 其外都合三十五瓶、余席に私も立てた」とある。たぶん公郷の日記や記録文書を調査すれば相当の回数になると考えられる。

 このように天皇自ら立花をいけられ、立花の会を度々開催されたことは、臣下の公郷達も事あるごとに立花を立て室内を装飾し、技術を競ったことは容易に推察できる。その結果として、寛永二十年(一六  )花の伝書「仙傳抄」が印刷出版され、続いて立花、砂立物の写生図譜である「古今立花集」「立花図并砂物」が寛文十二年十三年と続けて出版され、いけ花人口急増と一般化進み、元禄年中には、富裕の町衆にも流行が広まり、江戸を始め全国へいけ花が広まって行く。

 立花の名人初代、二代の専好、そして後水尾天皇を始め当時の文化人がこぞって立花に関心を寄せ、実際技術を競ったことは大いに顕彰せねばならないと思っている。

図は、池坊専好(二代)の活けた立花 寛文六年正月
小御所にて立てる「関東献上立花図巻」
安永五年写本による