老中主席引退後のガーデニング
「浴恩園櫻譜」
  松平定信編  文政五年
 
 本書の原題は「花の鑑」と題し、文政五年松平定信によって編纂されたもので、旧蔵者三好学氏によって写本並に「浴恩園櫻譜」と名付けられた。

 定信は徳川吉宗の直系の孫として田安家に生れ、幼少の頃から明晰さは人に優れ、青年期に故あって奥州白川藩松平家の養子嗣となる。家督を継いだ間なしに天明の大飢饉に見舞まれるもこれをよく治め、藩中一人の餓死者も出さなかったと言う。この手腕を見込まれ幕府の経済建てなおしの為老中となり、世に云う寛政の改革を行った本人である。

 約六年の老中職は大奥の女性に人気を失いこれがもとで辞し、以降は文学、故実研究、そして浴恩園、春秋園と名付けた二ケ所の下屋敷でもっぱら園芸植物のコレクションとその観賞を楽しんだ。

 浴恩園櫻譜に修められたサクラの品種は、すべて定信が全国各地から集め、園内に植えさせ観賞したさまを随筆「浴恩園假名の記」に次のように書き残している。

 「……大なるうつぎの二つ三つあればにや、うつぎの関となんいふ。此関をこゆれば、右は池左は桜のなみ木にて、きぬ桜といふもここにあり。遅桜にて色かことなれば、ときはとともにめづる木なり。ここに亭あり。浸月の額を小田原の君かき、繞花のは村上の君かき給ふ。二つあわせて花月亭といふ。……」このように庭園内を細部に亘り書き残し、絵図も残している。

 さて図譜の作者であるが 定信と親交のあった江戸の画家谷文晃又はその門人の作であろう。とは本書の旧蔵者三好学氏の説である。
品種の総数百二十四種である。