江戸で栽培が始められたサクラソウ
「桜草図譜」
  行方水谿輯録 慶応元年稿成
 
現在サクラソウと云えばプリムラ類を指したり、マラコイデス系を示す名に使われたりして、本物のサクラソウを「日本桜草」と呼ぶことが多い。‘そば’を日本そばと云うが如しであろう。

 この日本サクラソウは関東地方に自生が多く、現在で埼玉県さいたま市の自生地が天然記念物として保護されている。このサクラソウがいつから園芸植物として栽培が始められたを少し調べて見た。

 架蔵の「桜川」なる一書によれば戸田川の川原などの自生種を享保の頃より江戸市中で栽培を楽しむ人々が現れ始めたが、自生地で花形花色の変化あるものをさがし求めたが、白花を見つけるのがやっとで、変り花を求めることができなかった。しかし富永喜三郎と云う人が戸田にて絞り花を見出し‘須磨の浦’と名付けて観賞するようになり追々サクラソウを栽培する人々が多くなり、天明から寛政の頃ともなると市中下谷辺に於て特に好者が増加し、実蒔(実生)によって新しい花形花色の異った品種の作出が競ってなされるよいうになり、作品の高下をつける為に愛好団体として「下谷連」ができた。

 この連ではサクラソウを評価するのに六段階とし、一、無極、二、玄妙、三、神竒、四、総論、五、確逸、六、出鮮 とし人々は無極、玄妙に評されるような品種を如何作出するかを競った。

 連も下谷連に続いて「山の手連」「小日向連」などが生れ、文政天保の頃には大盛況であったようだ。
 「桜草図譜」はそれより少し後の編集になる一書を紹介する。

「桜草図譜」 行方水谿輯録 慶應元年稿成
現代写本、原本は東京都立中央図書館加賀文庫本、
原題は「櫻草百品圖」であった由、その後の写本者の奥書に記されてある。