伊勢撫子の流行と花形
「撫子培養手引草」
  長谷酔花著  文久三年
 
 著者は長谷酔花なる人。序文は下谷隠士玉雲道人、文久三年とあり写本にて伝わる。

 序は、
 「天保九戊のとし后の四月某日とぞ覚へたり杏葉館、瀑布亭其他瞿麥中相集りて花合せの曾を小石川小日向某所に開廷し、鉢数三百余種に及び其中よりすぐれたるものを撰び相撲番付に見立同好の士に配布せり

 回顧すれば既に昔日のことにして当時は異花八重吹詰等総て打ち混し品評せしも、弘花の頃に至り、愛玩者中に各々其花形嗜好は異にし別れて数派となり今日に至りては所謂単弁細鬚の伊勢撫子獨り流行を極め他の異花八重吹詰の類大いに衰へたりしも尚旧花を愛玩するの徒少からず形は各人の嗜好の異なるに依るなるべし吾等の撰議すべきにあらず。文久三発亥年下谷隠士玉雲道人誌」とある。

 天保九年から数えて二十五年後にはナデシコ数の中でイセナデシコが流行していた事情を知ることができる。

 本文は彩色図七種に続いて伊勢撫子の起源花色、花形を識し、花は単弁鬚長く大輪なるを貴べり、しかも弁の基部はシャンとして稍凹形樋状となって細く切れる部分になって毛締の如く柔かに垂下し上下に狂ふ癖なきものを上品とするなど規定し、栽培法、繁殖は挿木にて行うが、三〜四年もすると草立醜き状態となり、遂には枯死まぬがれずとあり、当時もウイルスに冒されやすかったのであろう。

 又実生繁殖では名花は容易には得られないとも記している。後半は品種花、咲き方、花色を計五十五種別記されているが、天保九年の番附の上位を写したものである。