梅の名木にまつわる資料の一つ
剪しょう梅  (せんしょうばい)  しょうは、糸偏に肖
  
 
「せんしょうばい」と読む、「しょう」とはうすぎぬのこと。さて名はともかく、先づ図中の書き入れ文を紹介しよう。

 「むさしの国 之はら郡蒲田村に名だたる和中散といふ薬うる家あり 其名も梅木堂とも梅林ともいふ それは、いと古き梅の木あればなり 去年のはる田安の黄門君の此あたりめぐらせ給へる折に立より見そなはしめで給ひて たち剪たる (絹)を散せることみゆとて かく名づけさせ給ひけるを珍しくおぼしゆれば やかてそのさまをうつしたるなり

 文政七年二月 品川河(川)崎の間蒲田 和中散梅屋敷」とある。筆者は東京の地理に詳しくはないが、京浜東北線蒲田駅の近くに、和中散本舗が当時あったのであろう。現在でもこの梅が生き残っていてくれると嬉しい限りであるが。ご存知のお方はお教え下さい。

 さて文中にある田安の黄門とは即ち、無理に奥州白川藩に養子となった松平定信を指す。彼は三十才で世に謂う寛政の改革を行い五十五才で家督を嫡子にゆづり 文学に親しみ、多くの文筆活動を行い、花と芸術を愛した。その定信が、蒲田のこの梅を見物し、名木に名を献じ、親しくしていた当時江戸一番と云れた画家 谷文晁に絵画かせた事象を知ることができる。梅の名木にまつわる資料の一つである。