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我国において、フウランが園芸植物として栽培されるように何時頃から始まったのであろうかと、当文庫にある文献資料各種を調査した結果、とりあえず次のような時代が浮かび上った。
即ち園芸文献の初見は「写本花壇網目」の六月の項に「風蘭ん」と植物名のみの記載あり、次いで「訓蒙図彙」に「風蘭は一名を桂蘭とも吊蘭ともいふ」との解説と共に図があり、解説文中にもある如く吊蘭=吊って作るランとの表現にて、栽培法の一端をも知ることができる。
以上二点の文献は前者が寛文五年に成立した園芸書であり、後者は同じく寛文六年出版された百科事典的書物であるからおよそ寛文頃から京都、大阪、江戸などの都市生活者の間で観賞用に始められたと推定できる(1660年頃から)。以降文化文政期頃には他に例を見るように奇異な姿の草姿形態の植物を珍重する風習が高まり、フウランもその例外ではなく、葉の巾の大小、湾曲直立、斑入などの変異株を愛翫し、花の美しさは求められなかった。
ここで紹介する刷もの「風蘭五種」は安政二年、京都の園芸愛好家として当時すでに有名人であった柳枝軒が披露した刷ものであり図は江戸の関根雲停と並び稱せられる京都の画家秋尾亭蒼山の作である。
本文の一部を紹介する。
此ころ都下に風蘭を好める人数多ありても 二三品手に入りのちにも 伊掾青海を改め玉簾といふ品を得たり つらつらとながむれば たますだれ如きやさしき生立にあらず 葉も珍らかに大きく葉ことに高浪のごとき曲あり されは大津浪とも名付たくはおもへど其となへをいみきらふ人もあらんかと つの字をはぶき大浪と名付て珍蔵す。(後略)
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